高市内閣の『憲法改正』について思うこと。

2026年5月9日

自民党では、憲法九条はアメリカから一方的に押し付けられたものだと信じられていた。
そのため自民党結党以来、憲法改正が党是のように扱われてきた歴史がある。
一九五七年岸内閣で本格的に憲法を改正しようと岸信介総理大臣のもとで、憲法調査会(高柳賢三会長)が立ち上げられ、憲法改正案の作成を目指していた。
ところが、一九五一年二月に衆議院議長に就任した幣原喜重郎の秘書役を務めた平野三郎衆議院議員が一九五一年二月下旬に世田谷区岡本にあった幣原邸を訪れて二時間ほど、「戦争放棄条項や天皇の地位について日頃疑問に思っていた点を中心にお尋ねし、それについて幣原先生にお答え願った」ことをメモに作成し、そのメモのうち、「これらの条項の生まれた事情に関する部分を整理して」『幣原先生から聴取した戦争放棄条項の生まれた事情について』と題して一九六四年二月、幣原氏の死後、十数年を経て憲法調査会に提出した。
この「平野文書」によって憲法九条がアメリカの一方的な押し付けで作られたものではなく、反対に幣原が若槻内閣の外務大臣の時に満州事変に臨んで、事変の拡大を止めることができなかった体験や濱口内閣の外務大臣としてワシントン会議に臨んで軍縮交渉を体験したことやアメリカによる原子爆弾の広島・長崎への投下による被害の甚大さを知ったことで、二度と世界で原爆の犠牲者を出さないためには、日本が先頭に立って憲法九条で謳った戦争の放棄・交戦権の否認・戦力の不保持を世界に宣言することで、将来的に核兵器の開発が進み、核兵器の軍拡競争が行われることが予想される中で、人類の滅亡を防ぐためには、軍縮が必要であることを、そして、戦争をなくすためには、果てしない軍拡競争を止め、外交による話し合いで問題を解決することが必要であり、そのためには、武力を持たないことが戦争を防ぐ最善の方法であるという信念に基づいて総理大臣であった幣原から当時、GHQの最高司令官として日本の占領政策を指揮していたマッカーサーに対して「秘密会談」のなかで憲法九条の「戦争の放棄・交戦権の否認・戦力の不保持」を新しくつくる改正憲法に入れることを提案したことが「平野文書」に書かれていた。そのため、「平野文書」を読んだ憲法調査会は、憲法改正を断念して1964年に憲法改正に対する賛成意見と反対意見を明記した最終報告書を提出して解散したという歴史的経緯がある。
岸信介内閣を含む自民党政権が積極的に憲法改正を行おうとして断念してから五十年が経つ。

そして、現在、その頃のことを知る国会議員がいなくなって、高市内閣が『憲法改正の秋が来た』と声高に叫び、年内にも憲法改正に取りかかろうとしている。
戦後、八十年が過ぎ、戦争を体験した世代が去り、戦後の平和憲法に守られて育ってきた世代が我国の国会議員を占めている。
われわれ国民は、本当に今、憲法の改正が必要なのかを問い直してみる必要があるのではないだろうか。
今から五十年前、戦争を始めた東條内閣の商工大臣を努め、戦時経済を主導して国民を悲惨な戦争に巻き込んだ岸信介元総理大臣や戦時中に大政翼賛会議員として戦争に賛成して、多くの戦時法の成立に手を貸してきた当時の自民党の国会議員たちが憲法改正を断念した事実、「憲法九条は決してアメリカから押し付けられたものではなかった」という事実を正しく受け止めるべきではないか。
そして、憲法は主権在民や基本的人権など九条より重要なことが定められており、本来憲法で保障されている国民の基本的人権などについても国会でもっと議論されるべきではないか。
「平野文書」を憲法調査会に提出した平野三郎についての略歴は次のとおりである。 平野三郎は、一九一二(明治四五)年岐阜県郡上八幡町で生まれ、東京高等師範学校附属中学校を卒業、慶應義塾大学に進学するも、治安維持法違反により中退、一九四〇年に召集されて日中戦争に従軍、敗戦後一年間捕虜生活を経て帰還、一九四七年に郡上八幡町長となり、一九四九年に衆議院議員初当選する。このとき、衆議院議長の幣原の秘書役を務めた。衆議院議員を五期つとめた後、一九六六年から岐阜県知事を三期つとめている。衆議院では一九五五年に自由党と日本民主党の保守合同で結成された自由民主党に所属し、農林政務次官、衆院厚生委員長、自由民主党政調副会長などを歴任している。

Posted by たっちん